背番号10・15の理由と選手を解説
中日ドラゴンズの永久欠番は「10番」と「15番」の2つだけ。12球団の中でも最も少ない部類に入る。立浪和義、岩瀬仁紀、山本昌といった名選手たちでさえ永久欠番になっていない中、なぜこの2人だけが選ばれたのか。その背景と功績を竜党目線で徹底解説する。
打者・投手の二刀流レジェンド
捕手→打者→投手という異次元のキャリア
1939年、日本大学から捕手として「名古屋軍」に入団。入団3年目の1941年には8本塁打を記録し、ドラゴンズ史上初のホームラン王に輝いた。
翌年、太平洋戦争で軍隊に召集される。戦後1946年に復帰後、監督の勧めにより捕手から投手に転向。カットボールを武器に5年連続二桁勝利を達成した。
打者としてホームラン王、投手として通算112勝——大谷翔平も顔負けの異次元二刀流キャリアだ。1954年の球団初日本一にも主力として貢献している。
初代ミスタードラゴンズ
日本プロ野球史上最年少出場記録保持者
1936年、なんと15歳で入団。公式戦出場は満16歳からとなったが、16歳4日での最年少出場記録は現在も日本プロ野球史上最年少記録として残っている。
182cmの長身を活かした速球を武器に、1940年に20勝をマーク。1942年には球団史上初のノーヒットノーランを達成した。
戦争から復帰後、右肩を痛めたことから打者に転向。首位打者・打点王・ベストナイン3回と輝かしいタイトルを獲得。1954年の日本一にも貢献した真の二刀流だ。
永久欠番制定の背景は、実は「政治的副産物」だったという説が有力だ。1959年に杉下茂が監督に就任する際、球団方針で30歳以上の選手が全員解雇となった。杉下監督はこの条件を受け入れる代わりに、「西沢と服部の永久欠番」を球団に提示。球団がそれを受け入れた。
つまり、永久欠番が「功績を称えるための積極的な制度」として機能していないのだ。近代の名選手たちを見ると——
- 背番号 13岩瀬仁紀:歴代最多407セーブ。他球団なら間違いなく永久欠番級の記録だ。
- 背番号 34山本昌:32年間現役という前人未踏の記録を持つ。引退翌年には新人が着用。
- 背番号 3立浪和義:通算2,480安打。引退後には署名活動も起きたが球団は継承を選択。
球団方針を見る限り、今後も新たな永久欠番が生まれる可能性は低いと言わざるを得ない。
- 中日ドラゴンズの永久欠番は背番号10(服部受弘)と15(西沢道夫)の2つだけ
- 両者とも戦前・戦後を生き抜いた二刀流のレジェンドで、1954年の日本一に貢献
- 永久欠番制定の背景には杉下茂監督就任時の交渉という経緯がある
- 近代の名選手(岩瀬・山本昌・立浪ら)が永久欠番にならないのは球団の消極的な方針によるもの
情報は調査時点のものです。





コメント